人は誰でも、「自分はできる」「わかっている」と思いたい。
けれど実際には、その“できる”や“わかる”の基準は、人によってまったく違います。

たとえば溶接ひとつ取っても、
ある職人は「盛り方が均一で美しい」ことを“できる”と言い、
別の人は「とりあえずくっついて穴が塞がっていれば良い」と言う。
どちらも間違いではありません。
ただ、基準が違うのです。
※正確には盛り方が均一なら負荷がかかった時に
力が上手く逃げるので、美しいだけでなく
強度も増すというメリットもありますが

同じように、社長と従業員でも、見ている景色が違います。
経営者は「全体と責任」で考え、
従業員は「目の前の業務」で考える。
さらに、ゼロから会社を立ち上げた人と、
既にある会社を継いだ人とでは、感じている重みがまったく異なります。法や就業規則の違いも理解している人とごっちゃになっている人も多いです。

一方で、従業員の中には、学校で学んだ知識や社内の慣習を“法”だと思い込み、
本来の法律の趣旨や現実を知らないまま、「それはおかしい」と指摘してしまうこともあります。
しかし実際には、その理解の方が誤っていることもある。
そもそも間違った大元の事をしてしまっているのに、
自分が原因なのに、あいつにやられたと怒り出す。

知識があることと、社会を理解していることは違う。
そして、理解しているつもりになった瞬間、人は成長を止めてしまいます。

だからこそ、私は思うのです。
どんなに学んでも、私たちは無知である。
だからこそ、自分を疑い、学び続ける姿勢を失ってはいけない。

学びに終わりはありません。
それは、仕事のためではなく、生きるために必要なこと。
私たちは、どんなに学んでも無知である。知らない事は無限にあります。
だからこそ、謙虚に学び続けるのです。